【御真言】 南無大師遍照金剛
弘法大師四国八十八カ所御開創の砌、須崎の入海はきわめて広く、今の大師堂の地点は海に突き出た岬とっていた。当時は山越しに行くのを常としたが干潮の時はこの二つ石岬の端を廻って行くことができた。ところが同地は波浪いつも岩をかみ「土佐の親しらず」といわれ、波にさらわれて海の藻屑となるものも多く海難が多発し、そのうえ同地点は伊予石鎚山の末端に当たるので身に不浄あるものは時々怪異に出会うといっておそれられていた。 大師は、そのことを聞いて海岸にたつ大岩の上で海難横死者の菩提のため、海上・陸上の往来安全を祈願して祈祷を行い、一寺を建立したのが今の大師堂の起源である。それ以来難儀も軽減したので、誰言うともなく「二つ石のお大師さん」と呼ばれるようになったという。 二つの大岩は長年波荒く打ち寄せる波の力で磯になり丘になり、遂に昭和の初め防潮堤ができ、今はその姿を留めていない。寺伝によれば宝永四年(1707年)の大変までは古市町にあり八幡山明星院大善寺といい、法印職の住する中本寺格として八幡神社の別当職として末寺十七カ所寺を擁していたが(寺地境内は六反十二畝三歩・寺は三間に二十四間だったという記録がある)津波で流失し古城山のふもとに移ったものらしい。 後に明治の廃仏毀釈により廃寺となり、明治二十九年(1896年)大師の霊跡を惜しむ里人の手で再興され現在地に移転し寺の再建を計って今日に至っている。 尚、本堂前境内よりのながめは太平洋を眼下に一望でき「二つ石の上でお大師様」が今もみなさま方の幸せをとこしえに御祈願されております。